武田信玄の政策

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武田信玄の領地である甲斐国は、現在の山梨県の辺りに存在しています。山梨県は、俗に「海が無いのに山無しとはこれ如何に」といわれるように海に面していないため、武田信玄の時代は貿易などで利益をあげることは難しかったといえます。そんな甲斐の国を、信玄はどうやって切り盛りしていったのでしょうか?

武田信玄の政策

戦国大名は、ただの戦上手では務まらない職業であるといえます。戦上手なだけの大名は、民衆の負担を考えず国取り合戦に明け暮れて、家臣の逆心を煽るだけであるのは歴史が示す通りです。武田信玄の父・信虎は甲斐の統一に専心していた「戦上手の大名」であったがゆえに、信玄に取って代わられたといえます。戦国大名は、政治家であり軍人でなければ務まらない総合管理職なのです。

武田信玄の取った政策の根底にあるもの

母・大井の方の熱心な教育方針によって、当時としては高い水準の教育を受けることができた信玄は、父である信虎とはまったく違う大名としてのあり方を身に付けることができたといえます。信玄は教育を受ける中で、勢力を伸ばすために合戦に終始し、国の内政を省みなかった信虎へのアンチテーゼとして、より高度でより確実な政治を行うことを心に決めていたのではないでしょうか。

合議制の導入

戦国時代の政治は、大名の鶴の一声で大部分が決定してしまう専横政治が基本であったといえます。そのため、大名がボンクラであると内政が破綻し民衆の不安が高まり、家臣による下克上を後押しすることがたびたび会ったのです。しかし、十分な教育を受けた信玄にとって、従来の専横政治体制では国を栄えさせることができないと考えていたようです。そのため武田信玄は、信虎を追放する為の会議の時から合議制を導入して、国政を運営してきました。居並ぶ重臣たちが議題についての意見を述べ終わると、信玄は場に出た意見を纏め上げ、全員が納得の行く決定を下したといわれています。戦国時代においては、意見の対立は後々に遺恨を残すことも珍しくなかったからです。この合議制は、信玄下の甲斐の国を栄えさせていく原動力となっていきます。

新田・信玄堤の開発

甲斐は、東に奥秩父、西に南アルプス、南に富士山、北に八ヶ岳と四方を山に囲まれた山間の国です。そのため、水源であり貴重な蛋白源を得ることが出来る漁場ともなる川は、甲斐の生命線であったといえます。しかし、その生命線となる笛吹川と釜無川はたびたび氾濫を起こし治水工事の必要性が長年訴えられてきました。また江戸時代までの日本は、米の収穫高こそが国力そのものでありました。そのため、天下に号令をかける有力大名となるためには新田の開発による収穫高の増量は必須であったのです。武田信玄は新田開発と治水工事を同時に進めるために取り組んだのが、現在も有名な「信玄堤」なのです。川が氾濫する場所というのは、栄養の豊富な土がある場所でもあり、上手に治水すれば新田開発にもってこいの土地を得ることができるのです。

信玄堤の目的

信玄堤は、河川の氾濫を防ぐための堤防であると同時に川の流れを変えて水源を作る役割を持っています。信玄堤の工事では、釜無川の上流の御勅使川(みだいがわ)と笛吹川の合流地点に「高岩」という堤防を備え、弱まった川の流れを遊水地に引き込んで農業用水などに使えるようにするという内容の工事が20年近くに渡って行われたのです。武田信玄は堤防の建設だけでなく植林も合わせて行っており、1560年の完成以来500年近くに渡って健在な堤防を作り上げたのです。信玄堤の完成した1560年は桶狭間の戦いがあった年で、群雄割拠の戦国時代の勢力図が織田信長によって塗り替えられようとしていた時期でもあります。信玄堤は、信長が恐れた武田軍を支える食料生産の重要な要素となって行ったのです。

経済における武田信玄の政策

経済は、近代国家を運営していく上で欠かせない要素です。特に商業取引における、絶対的な価値基準となる通貨制度の確立は必須であるといえます。しかし、戦国時代以前の日本では、中国から輸入した硬貨を私的に作った私鋳銭などの問題が多発し貨幣制度の信頼性は低かったといえます。戦国大名にとっては、貨幣制度の安定は軍事面に匹敵する課題であったといえます。

武田信玄の甲州金

甲斐の国は、日本の中心線であるフォッサマグナが通っていることなどの地理的条件から、金鉱脈を豊富に持つ地域であることは有名です。武田軍の強さは、金によって支えられていたのです。この当時はまだ佐渡島の金山には手が入っていなかったので、甲斐は日本有数の金保有国であったのです。武田信玄は、甲斐の貨幣制度を整備して甲斐国内で通用する金貨を鋳造しました。これが碁石金の通称で知られる「甲州金」です。甲州金には、元は家臣への恩賞として贈るために作られたという説があります。そのためか、甲州金の形状は整えられておらず、精錬して重さをそろえた金の表面に刻印がなされているという非常に単純なものです。

甲州金が作った貨幣単位

甲州金の特筆すべき点は、江戸時代の貨幣単位のモデルとなった点です。甲州金は、4匁(約15g)を「1両」とし、1両を4文、1文を4朱、1朱を4糸目という四進法で換算する貨幣制度を持っています。この貨幣制度は、後に徳川幕府が日本国内の貨幣制度を統一したときに取り入れられたのです。また、「金に糸目はつけない」という慣用句も、この甲州金の単位から発生した言葉なのです。

武田信玄の寺社政策

戦国武将は、仏教や神道やキリスト教などに帰依した信仰心の厚い者が多かったといわれています。これは、合戦での勝利を祈願する意味や合戦で失われた命を供養する意味合いを持っていたといわれていますが、本当の意味で信仰心の厚い大名は出家することも珍しくはありませんでした。武田信玄もまた信仰心の厚い大名の一人で、「信玄」という名前も出家後に得た法名なのです。

寺社を保護した武田信玄

この時代の仏教は、織田信長と対立した一向宗や本願寺などに代表されるように独自の勢力を備えた存在として君臨していました。僧兵と呼ばれる武力を備えた仏教の寺は一種の治外法権であったといわれています。寺の焼き討ちなどを行い対立する政策を取った信長に対して、信玄は寺や神社の権利を認めると同時に義務を負わせる寺社政策を取っていきました。武田信玄の寺社政策は、信仰心から発したものであると同時に国内安定のための方策であったと考えられています。現在のように戸籍を役所で取り扱うようになったのは明治時代のことで、それ以前は菩提寺によって戸籍が取り扱われていたのです。寺社を保護することで、寺ごとの戸籍を把握できるようになり、判明した領民の人数と分布から地域ごとの米の収穫量を予想できるようになるのです。信玄の寺社政策は、一石二鳥にも三鳥にもなる政策だったのです。

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