武田信玄と合戦

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日本の戦国武将が現代でもファンが多いのは、合戦における戦術や戦略の見事さなどが根底にあるからといえます。戦国時代は、火縄銃の伝来によって従来の戦術論が大きく変化していった時代でもあるからです。そんな戦国時代において、武田信玄はいったいどのような戦略・戦術を用いたのでしょうか?

武田信玄と合戦

日本の合戦というものは、鎌倉時代までは現代のプロレスのようなものだったといえます。源平合戦などは、その極致といえます。「屋島の戦い」における那須与一の「扇の的」の話などは、選手のマイクパフォーマンスに通じるものがあります。自己を明らかにする名乗りを上げるのも、選手紹介などの試合開始前の儀礼のようなものといえます。しかし、鎌倉時代に起こった元寇によって、日本の合戦の事情は大きく変化することになります。「やぁやぁ我こそは〜」と名乗りを上げて単騎掛けを行う鎌倉武士に対し、モンゴル兵士たちは得意の弓や「てつはう」といった飛び道具を容赦なく撃ち込み、鎌倉武士を壊滅状態にまで追い込んでしまいます。元寇は、いわばバーリ・トゥードの総合格闘技だったのです。

戦国時代の戦略・戦術論

元寇では大敗し、二度の神風に助けられた日本の武士たちは戦術や戦略をより実戦的なものに練り直す必要に迫られます。鎌倉時代までの戦術・戦略論は、太公望呂尚が書いたといわれる「六韜」などに頼っていました。そこに登場したのが平安時代に伝えられた兵法書である「孫子」です。「孫子」の作者の孫武は、「三国志」において呉を建国した孫堅の先祖であるといわれています。「孫子」は、集団戦の心得や諜報活動の重要性など近代的な戦略・戦術論を説いた兵法書であり、現代にも通用するものであるといえます。平安時代に日本に伝わった「孫子」は、南北朝時代に差し掛かるまでは「知る人ぞ知る兵法」として受け継がれてきたのでした。

武田信玄も学んだ「孫子」

武田信玄に「孫子」の存在を教えたのは、信玄の母・大井の方が招いた岐秀元伯和尚であるといわれています。当時の僧侶は、武家だけなく公家などの上流階級とも親交を持つため、学問を修めている必要があったのです。また岐秀和尚は、当代一の学問者との評判が高く一部にしか知られていなかった「孫子」にも造詣が深かったことは、信玄にとって好機であったといえます。武田信玄は、「孫子」を学ぶことで高い戦術眼を養い、初陣での代金星を挙げて家臣たちの信頼を勝ち得たのです。

風林火山とは

武田信玄といえば、「風林火山」の旗印が有名です。この「風林火山」も「孫子」を出典とする兵法の心得なのです。「風林火山」の原文は「孫子」の軍争編に記された、「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山(疾きこと風の如く 静かなること林の如く 侵掠すること火の如く 動かざること山の如し)」の一節を、引用したものといわれています。「兵は神速を尊ぶ」という言葉があるように、合戦においては進軍の速さが大事になってきます。風のように速く、炎のように相手を蹂躙することこそが合戦の要になるのです。そして、静かに進軍の時機を待つことも合戦では重要なのです。相手の挑発に乗ってしまったがために、大将が討ち取られて軍が総崩れになった例はいくつもあるのです。

意外と知らない「風林火山」の続きとは

「孫子」に記された「風林火山」の下りは、これで終わりではありません。「難知如陰 動如雷霆 掠郷分衆 廓地分利 懸権而動 先知迂直之計者勝(知り難きこと陰の如く 動くこと雷の如く 郷を掠めるには衆を分かち 地を廓めるには利を分かち 権を懸けて而して動く 迂直の計を先知する者は勝つ)」と続きます。この意味は「自軍の戦力は影に隠されているように相手にわかりづらくし、動くべき時は雷のように素早く動くこと。国を取るならば民衆の心を領主から引き離し、領土を広げるならば利権を相手にも与える。相手の進路を先んじて知れば勝つ。」というものです。合戦で勝つことだけが国を大きくする手段ではなく、他国の民衆の心を離すことや利益を提示して懐柔することなどの計略も重要であるというのです。「風林火山」とは「百戦百勝が最善ではなく、戦わないまま相手を屈服させることこそが最善である」と説く、「孫子」の精神を示す言葉なのです。

武田信玄と忍者

「孫子」では一篇を割いて「用間」の重要性を説いています。用間とは「間者・間諜を用いる」こと、すなわちスパイの使い方です。「孫子」にいわく「敵を知り己を知れば百戦危うからず」、つまり敵と自己の実情を調べ尽し、知り尽くすことこそが合戦に負けないための前提条件になるのです。

武田信玄が使った忍者・スパイ

「孫子」に通じていた武田信玄が、スパイを使わない訳がありません。実際、武田信玄や有力な戦国大名は、自国内に忍者軍団を抱えています。武田信玄は、「透破」「歩き巫女」と呼ばれるスパイや忍者を使い、各国の情報を集めさせていたといわれています。

「透破」とは

透破は、「すっぱ」「とうは」「とっぱ」などと読み「スッパ抜く」の語源となった忍者の名称・通称であるといわれています。武田信玄が使った透破は「三つ者」とも呼ばれ、各地の情報収集や情報操作・人心操作などの諜報・工作活動に従事したと言われています。「忍者」というと摩訶不思議な忍法で武士や他国の忍者たちと戦うイメージがありますが、武田信玄は「孫子」に基づいた工作活動などに活用していたようです。

「歩き巫女」とは

「歩き巫女」は、いわゆる「くの一」のような女性スパイ集団です。武田信玄は、身寄りのない少女たちを集め、訓練を行い各国で巡礼をしながら情報を集めて回るスパイに仕立て上げたのです。歩き巫女は、元々どこの神社にも属していないフリーランスの巫女のことで、舞や歌を披露するなどして生計を立てるいわゆる「漂泊の者」であったといいます。信玄は、諸国を歩いても怪しまれない歩き巫女に目をつけ、望月千代女という義理の姪に当たる女性忍者に歩き巫女の養成を行わせたといわれています。その一方で、信玄は家臣に僧侶や巫女を泊めることを禁止しています。信玄は、他の大名が自分と同じように僧職をカモフラージュにした忍者に諜報活動を行わせている可能性を恐れていたのです。

武田信玄の誇る騎馬軍団とは

俗に、武田信玄は「戦国最強の武田騎馬軍団」を有していたといわれています。甲斐の国は当時有数の名馬の産地で、山で鍛えた足腰やスタミナの強い甲斐の馬は軍用馬にうってつけで、信玄は騎馬を重用したと言われています。この騎馬軍団は、勝頼の代に行われた「長篠の戦い」で織田信長の鉄砲部隊によって破られたといわれています。

騎馬軍団は存在しなかった?

しかし、後年の研究では通説とされている「長篠の戦い」の様子や武田騎馬軍団の存在は捏造されたものではないかと考えられています。「長篠の戦い」の代名詞である鉄砲三段撃ちや、鉄砲隊を守るための柵などが騎馬軍団を倒したわけではないのです。長篠の戦で犠牲となった武田軍の兵士は、鉄砲によるものよりも後退中に受けた傷によるものの方が多いのです。また、騎馬軍団自体も創作であったといわれています。

軍馬と兵士の関係

そもそも、軍団を形成するほどに軍馬を投入するという行為は大局的な戦略から見れば非合理極まりないといえます。馬の一日に食べる量は人間の十倍といわれ、道端の雑草を食べさせても追いつかないのです。戦国時代においても、現代においても兵士の食料を支える兵站は司令官にとっての悩みの種であるといえます。つまり、馬を主力にするとその分だけ人間とは別に、大量の食料を確保しなければならなくなるのです。さらに、それだけの食料を戦場に運ぶための輸送に人員や馬を使うことになります。

個人戦から集団戦への移行

また、前述したように鎌倉時代ごろまでは合戦というものは一種の個人戦の固まりで、「誰がどれだけの武勲を上げたか」をわかりやすくするために名乗りを上げていたのです。しかし、戦国時代になると足軽などの歩兵の重要性が再認識されるようになり、馬上の兵士一人に対して10人の歩兵という状態が当然となっていたのです。また、昔の日本人は現在の西洋式ではない「なんば」という歩き方や走り方をしていたので、進軍速度はともかく進軍距離に関しては相当のものであったようです。つまり、騎馬のアドバンテージは早さだけになります。

騎馬軍団はファンタジーか

部隊を作っても維持するのに人間よりもお金がかかる上に、機動性以外の売りがない騎馬兵士は、世界的に見てもあまり多くはなかったといえます。合戦の無いときでも馬を維持できるのはそれなりの地位を持っていた武士だけで、軍の大半を占める歩兵は農民や下級武士であったからです。騎馬を戦車に置き換えればわかりやすいでしょう。いくら戦車が強くても維持費という概念が存在する以上、すべての戦車をいつでも問題なく使用できるようにする維持費を、全車分支払えるように計算しなければならないのです。結論としては「武田軍の軍馬は強かったが、騎馬軍団を作るほどではなかった」ということになるのです。

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